月山富田城跡
基本情報
島根県安来市広瀬町富田
月山(がっさん)の一帯にあり、戦国大名尼子氏歴代が本城とし山陰・山陽制覇の拠点とした月山富田城は、その規模と難攻不落の城として戦国時代屈指の要害でした。また艱難(かんなん)辛苦に耐える悲運の武将・山中鹿介の出た城として有名です。
尼子氏滅亡後、毛利氏、吉川氏の時代には、山陰地方支配において、月山富田城は重要な役割を果たしました。関ケ原の戦いの後には、堀尾氏が月山富田城に入り、松江城に至るまで統治の拠点としました。
月山富田城は標高約190メートルの月山山頂に主郭部を設け、尾根上に大小多数の曲輪を配した複郭式山城です。菅谷口、御子守口、塩谷口の3方面からしか攻められず、城内郭の下段が落ちても、中段の山中御殿で防ぎ、そこが落ちても主山の月山に登って防ぎ、頂上には堀を築き守りを固め、一度も落城しなかった天下の名城として知られています。
1934年に国の史跡に指定され、2006年には「日本名城100選」にも選ばれています。
難攻不落の城と言われており、主家への忠義を貫いた山中鹿介の銅像や供養塔、随所に残る石垣や石畳の古道が往時の面影を伝えています。
主な歴史
・保元・平治頃(1156~1159) | 平家の大将悪七兵衛平景清が築城と伝えられる |
・15世紀中頃 | 出雲守護代・尼子氏が入城。以降、尼子義久までの百数十年間、 尼子氏の居城となる。 |
・天文11年(1542) | 第一次月山富田城の戦い(尼子VS大内・毛利連合軍) |
・永禄8年(1565) | 第二次月山富田城の戦い(尼子VS毛利) |
・永禄9年(1566) | 尼子氏が毛利に敗れ、同城も毛利領となる |
・慶長5年(1600) | 堀尾忠氏が城主に |
・慶長13年(1608) | 堀尾忠晴が松江城に移る |
・昭和9年(1934) | 国の史跡に指定される |
・平成18年(2006) | 日本100名城に選定 |
トピックス
・歴史雑誌「歴史人」2019年5月号 特集「戦国の山城大全」で最高評価
・NHK BSプレミアム「英雄たちの選択」山城スペシャルで紹介。
・尼子一族ゆかりの地「安来清水寺」にて【清水寺と雲樹寺の両参り】を開催しています。
資料ダウンロード
・「月山富田城跡 等高線図」はこちらからダウンロードできます。
スポット紹介
千畳平(せんじょうひら)
兵士が勢ぞろいした場所と言われています。
太鼓壇(たいこのだん)
尼子時代には、太鼓を打ち鳴らし、通常時は時を告げ、非常時には家臣に合図を送り、兵士たちを召集する場所であったと言われています。
馬乗馬場(うまのりばば)
北西に伸びる幅10~20メートル、長さ約140メートルの細長い曲輪は、馬の調練所であったと伝えられています。
奥書院
太鼓壇と花ノ壇の中間にある曲輪には、書院造りの館があったと伝えられています。
花ノ壇
当時の侍所で堀立柱建物等の施設跡が残っており、一部が復元・整備されました。
山中御殿平(さんちゅうごてんひら)
大手門を上がったところの平地で、城内でもっとも重要な場所の一つでした。
大土塁
山中御殿平の西側にある巨大な土塁は高さ約7メートル、長さ約130メートル、その外側の空堀は幅約10メートル、深さ5メートル以上にもなる防御施設です。
七曲り
山中御殿から山頂への大変険しい軍用道。
三ノ丸
七曲りを登ると最初にある曲輪が三の丸。幅約30メートル、長さ約100メートル。段築石垣が築かれており吉川時代のものと思われます。
二ノ丸
北側から三の丸方向を眺めると、切岸に加工された急峻な崖を確認することができ、攻め手を寄せ付けない造りになっています。
本丸
山頂部の最奥にある幅約20メートル、長さ約170メートルの曲輪。
月山富田城・尼子一族解説
尼子一族盛衰記
安来市広瀬町月山富田城を中心に、最盛期には山陰山陽十一州を従えた戦国大名『尼子氏』とは、どのような一族だったのでしょうか。
尼子盛衰記を分かりやすく解説
尼子盛衰記を分かりやすく解説します。
山中鹿介ゆかりの地
安来市の戦国武将 山中鹿介幸盛
七難八苦の悲運の戦国武将、山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)の波乱の一生をご紹介します。
川中島一騎討ちの碑
山中鹿介幸盛と棫木狼介勝盛が富田川の川中島で一騎討ちを行ったと伝えられる場所です。
山中鹿介幸盛生誕地
山中鹿介誕生の地といわれる、山中屋敷跡には石碑があります。
三笠山
山中鹿介がこの三笠山にかかる三日月を拝して、「願わくは我に七難八苦を与え給え」と祈ったと言われています。
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