月山富田城跡
基本情報
島根県安来市広瀬町富田
安来市立歴史資料館開館時間 9:30~17:00 休館日 毎週火曜日(祝日の場合翌日)
※100名城スタンプは、安来市立歴史資料館で押すことができます。休館日は玄関の前に置いてあります。
難攻不落の城
月山富田城は標高190mの月山を中心に、飯梨川に向かって馬蹄形に伸びる広大な山城です。山頂に主郭部を設け、尾根上に大小多数の曲輪を配した複郭式山城であり、菅谷口、御子守口、塩谷口の3方面からしか攻められず、城内郭の下段が落ちても、中段の山中御殿で防ぎ、そこが落ちても主山の月山に登って防ぎ、頂上には堀を築き守りを固め、一度も落城しなかった難攻不落の城です。
戦国大名尼子氏が山陰地方統治の拠点とし、尼子氏の後には毛利氏、吉川氏、堀尾氏と城主が変わり、戦国時代から江戸時代初めまで山陰の政治経済の中心地でした。吉川氏が城主となってからは主要な箇所に石垣を築き、瓦葺きの櫓や土塀を建てるなど、中世城郭から近代城郭へと大きく変貌し、その後に城主となった堀尾氏が松江城を築城して本拠を移すまで、出雲国の中心として繁栄しました。
昭和9年には、その歴史的価値が認められ国の史跡に指定され、平成18年に日本100名城、平成30年に日本遺産「出雲國たたら風土記」の構成文化財にも選定されています。
スポット紹介
千畳平
最も城下に面している曲輪(郭)のひとつで、斜面には張り出しを持つ大規模な石垣が築かれています。周辺から鯱瓦や鬼瓦を含む大量の瓦が出土していることから、張り出しの上には櫓が建てられていたと考えられています。
太鼓壇
太鼓壇は当時、時を知らせる太鼓櫓があった場所とされています。尼子時代には、太鼓を打ち鳴らし時を告げ、非常時には家臣に合図を送り兵士たちを召集する場所であったと言われています。現在は尼子家再興のために尽力した山中鹿介幸盛の銅像が建立されています。
馬乗馬場
北西に伸びる幅10~20メートル、長さ約140メートルの細長い曲輪で、馬の調練所であったと伝えられています。
奥書院
太鼓壇と花ノ壇の中間にある曲輪には、書院造りの館があったと伝えられています。
花ノ壇
当時の侍所で堀立柱建物等の施設跡が残っています。一部が復元・整備され、休憩施設として公開されています。
山中御殿平
月山中腹にある、城主の居館があったとみられる場所で、城内でもっとも重要な場所の一つでした。周囲を石垣に囲まれた広大な曲輪です。
大土塁
山中御殿平の西側にある大土塁は、全国でも珍しい規模の大土塁で、高さ約7メートル長さ約130メートルその外側の空堀は幅約10メートル深さ5メートル以上にもなります。山中御殿への敵の侵入を防ぐために築かれたと考えられています。
七曲り
山中御殿から山頂までの険しい道で、上から攻撃されると攻め上がることはできません。道の左右にある曲輪からも攻撃できるようになっています。月山富田城は山頂まで攻められたことは一度もなく、七曲りは富田城が難攻不落の城であることを象徴する存在です。
三ノ丸
七曲りを登ると最初にある曲輪です。幅約30メートル、長さ約100メートル。段築石垣が築かれており吉川時代のものと思われます。
二ノ丸
水や食糧を蓄えていたとされ、二の丸と本丸の間には敵の進攻を防ぐために設けられた曲輪の間を切る堀切を見ることができます。
本丸
山中鹿介幸盛を偲び記念碑が建立されており、奥には出雲国たたら風土記にも記載がある勝日高守神社があります。
用語解説
①曲輪(郭)くるわ - 守りの基本となる区画
建物を建てたり堀を築いて守りの効果を高めるための、人工的な平らな場所。いくつもの曲輪を連ねて配置することで攻め手を巧みに防ぎました。また生活の場所でもあり、月山富田城には全部で500ほどの曲輪があります。
②切岸 きりぎし - 削りだした急斜面
攻め手が登りにくく、また守り手が上から攻撃しやすくするために、曲輪の外側を削り急斜面にしたもの。単純な造りではあるが攻め手の攻撃を断ち切る大きな効果がありました。富田城の各所で見ることができます。
③堀切 ほりきり - 曲輪と曲輪を独立させるための落ち込み
尾根筋の曲輪と曲輪の間に築かれてた空堀。攻め手は曲輪同士が繋がっていないため遠回りをしなければならず攻撃が途切れてしまう。自然地形を活かして曲輪と堀切をいくつも配置することで守りを固めました。
④竪堀 たてぼり - 等高線に対して直角に掘った堀
竪堀を掘ることによって斜面を縦に仕切ることが出来るため、敵が横方向へ移動するのを防げます。
⑤土塁 どるい - 土で作った大きな壁
土で作った大きな壁を土塁といい、富田城では山中御殿の西側にある大土塁が見所です。
⑥石垣 いしがき - 石を重ねて築いた高く急な壁
安土桃山時代から江戸時代になると、それまでの土塁から発展して土と石を用いた石垣が盛んに築かれます。石垣づくりは手間がかかりますが、土塁よりも強く高くするとともにその上に瓦葺建物を築くことができるようになりました。富田城の石垣は吉川広家が築き始めたものだとされ、朝鮮出兵から帰った後さらに石垣を充実させました。また関ヶ原の戦いの後に入城した堀尾忠氏、吉晴親子も石垣づくりを進めました。
⑦虎口 こぐち - 守りの要となる曲輪の出入口
曲輪の出入口を虎口といい、守りの要となるためここには門や石垣、櫓を配置するなど様々な守りの工夫があります。富田城には3つの登り口がありますが最終的には山中御殿に行きつくようになっており、菅谷口から山中御殿に入る虎口は石垣で築かれ直角に曲がっています。塩谷口から山中御殿に入る虎口も石垣で築かれ、こちらは左右に折れて登らないと入れないつくりになっています。いずれも敵が攻めてきたときに正面と横方向から攻撃するためで、容易に山中御殿に入らせないようにする工夫です。
⑧横矢 よこや - 攻め手を横から攻撃するところ
曲輪に攻めてきた敵に対し正面ではなく横から攻撃するところを横矢といいます。何本も伸びる丘陵の谷間に敵を誘い込み、両側の丘陵の上から敵を迎え撃ちます。また、虎口や塀を直角に配置させたり通路を折り曲げたり、曲輪の一部を出張らせる出隅(ですみ)をつくったりすることで守り手は正面に加えて横から攻撃することができます。横矢は虎口や馬乗馬場の出隅、花ノ壇の折れ曲がった通路などで見ることができます。
⑨櫓 やぐら - 高いところから攻撃するための建物
城の要所には高いところから攻撃するための櫓がつくられ、敵が攻めてくることを知るための櫓もありました。富田城山頂部の東西に突き出た曲輪では櫓跡が発見されており、櫓から敵の動きを知ると共に周辺の城や砦から上る狼煙を確認するためのものでもありました。千畳平では櫓が建てられていたと考えられる石垣があり、その建物に使われていたと考えられる鯱瓦が出土しています。
⑩堀 ほり - 水を利用して敵の侵入を防ぐ
富田城の周辺には堀(水堀)が廻らされています。城下の向こう側の飯梨川も天然の堀の役割を果たしており、西から山を越えて攻めてきた敵は、目の前に広がる大きな川に行く手を阻まれました。また、飯梨川は物流にも大きな役割を果たしていたと考えられています。現在の飯梨川は江戸時代に流れが変わったものであり、戦国時代は今より西側の現在の街があるところに流れていました。
月山富田城略年表
城主 | 年代 | 主な出来事 |
尼子清貞 | 1467 | 応仁・文明の乱が勃発し、戦火が全国に波及 |
1468 | 安来庄十神山城主松田備前守が富田庄を侵略 | |
1476 | 能義郡国一揆が起こり、一揆勢が富田城を攻める | |
1484 | 尼子清貞、経久親子が守護代を解任される | |
塩冶 掃部介 | 1486 | 尼子経久、守護代・塩冶掃部介を滅ぼし、富田城を奪回 |
尼子経久 | 1530 | 尼子経久の三男塩冶興久が父との不和で反乱を起こし、のちに自害する |
1537 | 尼子経久、家督を孫晴久に譲る | |
1540 | 尼子晴久、吉田郡山城の毛利元就を攻める | |
尼子晴久 | 1543 | 大内義隆、出雲に進攻するが敗北し撤退 |
1552 | 尼子晴久、山陰山陽8か国の守護に任命される | |
1554 | 尼子晴久、新宮党を族滅し国久、誠久殺され、敬久討死、常久、吉久自害、孫勝久2歳脱出 | |
1556 | 尼子晴久、石見銀山を奪取する | |
尼子義久 | 1565 | 毛利元就、富田城を攻撃し、包囲 |
1566 | 尼子義久、兵糧が尽き毛利の軍門に降り富田城開城 | |
天野隆重 | 1567 | 天野隆重が居城する |
1569 | 尼子勝久、山中鹿介らの尼子再興軍が出雲へ進攻する | |
毛利元秋 | 1570 | 布部・山佐合戦で尼子軍敗北、毛利元秋が城主となる |
1578 | 播磨国上月城が落城し、尼子勝久自害、鹿介備中にて暗殺される | |
1582 | 本能寺の変が起きる | |
毛利元康 | 1585 | 毛利元秋が病死、弟の元康が城主に |
1590 | 豊臣秀吉が全国を統一 | |
吉川広家 | 1591 | 吉川広家が城主になり、米子城の築城に着手 |
1592 | 文禄・慶長の役が起きる、広家も朝鮮に出陣 | |
堀尾忠氏 | 1600 | 関ヶ原の戦いが起きる、戦後に吉川広家にかわり、堀尾忠氏が父吉晴と入城 |
堀尾吉晴 | 1604 | 忠氏が急逝、吉晴が政務に復帰 |
1611 | 堀尾吉晴が居城を松江城に移し、廃城となる |
月山富田城・尼子一族解説
尼子一族盛衰記
安来市広瀬町月山富田城を中心に、最盛期には山陰山陽十一州を従えた戦国大名『尼子氏』とは、どのような一族だったのでしょうか。
尼子盛衰記を分かりやすく解説
尼子盛衰記を分かりやすく解説します。
山中鹿介ゆかりの地
安来市の戦国武将 山中鹿介幸盛
七難八苦の悲運の戦国武将、山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)の波乱の一生をご紹介します。
川中島一騎討ちの碑
山中鹿介幸盛と棫木狼介勝盛が富田川の川中島で一騎討ちを行ったと伝えられる場所です。
山中鹿介幸盛生誕地
山中鹿介誕生の地といわれる、山中屋敷跡には石碑があります。
三笠山
山中鹿介がこの三笠山にかかる三日月を拝して、「願わくは我に七難八苦を与え給え」と祈ったと言われています。
資料ダウンロード
・「月山富田城跡 等高線図」はこちらからダウンロードできます。
※月山富田城の向かい側にある勝山城は、松江市東出雲町からの登頂をお願いいたします。
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